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【第38回東京国際映画祭】ピーター・チャン(陳可辛)Q&A 「She Has No Name」政治の変化の中で、いかに生き抜くのかが我々の運命

【第38回東京国際映画祭】から注目のアジア映画をご紹介する後編は、90年代から活躍する香港を代表する映画監督のひとり、ピーター・チャン(陳可辛)の最新作「She Has No Name」(原題:酱园弄·悬案)。中国では6月に公開され、高い評価を得てヒット。後編の公開が大いに待たれている作品だ。陳可辛監督がQ&Aに登場した。

ここでは、そのQ&Aをご紹介するとともに、本作の裏にある2つのポイント、ひとつは陳可辛の経歴、もうひとつは本作の主人公のモデルとなった人物について解説する。
大変興味深い作品なので、本作を鑑賞する機会があれば、その前後に本稿を一読いただけると有難い。

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「東京国際映画祭に初めて来たのは1994年。翌年には「君さえいれば」(原題:金枝玉葉)を持ってきましたよ」とトークは始まったのだが、本作は、そんな“ラブストーリーの巨匠”ピーター・チャンのイメージとは異なる、中華民国時代の大事件とされる「酱园弄殺人事件」で殺人事件の犯人とされた女性の半生を描く。
2024年のカンヌ国際映画祭では150分バージョンで初上映されたが、その反応から今年の上海国際映画祭では前編96分の新バージョンで披露され、今回はその新バージョンでの上映となった。(弄は上海で路地・小道を意味する)

中国を代表する女優のひとり、チャン・ツーイー(章子怡)が、夫を殺害し、遺体を切断、蘇州河に投棄した容疑で逮捕される妻、詹周(ジャン・ジョウ、詹氏と結婚した周氏)を演じる。
彼女を虐げつづけてきた夫・詹雲影役を王傳君、この夫婦の階下に住む盲目の男をアイドル・俳優として人気の高いイー・ヤンチェンシー(易烊千璽)、事件を取り調べる刑事をレイ・ジャーイン(雷佳音)、詹周と一緒に服役している囚人役をチャオ・リーイン(超麗穎)が演じる。超豪華キャストが揃った大作だ。

「酱园弄殺人事件」は、1945年3月に起きた事件で「民国三(四とも)大奇案」とされ、当時から、詹周を悪女と非難する大勢と、被害者でもあると擁護する少数派で論争が起こり、世間の注目を集めた事件。この事件を元に小説や映画、ドラマも作られてきた。

しかし、「She Has No Name」は、ショッキングなこの事件を夫の暴力に耐えかねた妻の犯した単なる猟奇的な殺人事件として描いてはいない。
陳可辛が描きたいところはどこだったのか。Q&Aに登壇した陳可辛監督のトークから、それを感じてほしい。陳可辛監督のトークは英語で行われた。

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陳可辛:2014か15年に初めて本を読んで魅了され、途中コロナもありストップして、長い長い時間をかけて作りました。脚本自体も長いもので、物語は1993年まで続きます。今回公開したものは完全版ではありませんが、一応のエンディングを持っているので、1本の映画として楽しんでもらえたのではないかと思います。
主人公の詹周は、日本帝国主義、国民党、共産党と支配政権と状況が変わることで彼女への判決も変わりました。中華人民共和国となってからは強制収容所に収容され、1960年に保釈され、2006年まで生きました。本来4時間の作品で、ご覧頂いた後、残りが2時間半あります。

──Q:「人形の家」の引用がありますが、元々構想にあったのでしょうか?
陳可辛:本作の映画化に動き始めた当初から「人形の家」はベースにありました。8年間をかけて私の考えなどを加えていきました。1945年当時の中国はフェミニスト運動の影響を受けており、本作の中でも描きましたが、一人の女性記者の記事で世論が変わり、裁判の結果が変わっています。そうした側面も興味深く感じましたし、家庭内暴力・女性擁護の点もひかれた部分で、それは現在にも通じる問題だと思いました。

──Q:ご出身の香港では、この10年でいろいろな変化が起きています。作品構想中に起きた世界情勢の変化が映画の構想を変えた部分はありますか。社会秩序の現代性との関連で、当初と変わったことがありましたら教えてください。
陳可辛:この作品の意図をよく理解していただいていると感じます。おっしゃるように、この作品では権力関係・力関係を意識して描いています。権力を持つ者が弱者を抑えつける。権力を持っていても、さらにその上には権力を持つ者が存在して、それにより抑えつけられ犠牲になるという構造が社会には存在しています。カメラのアングルも意識していて、権力を持つ者の視点は高いところから撮る。弱者の場合は低いところから撮っています。出演シーンはあまりない夫も、実は高いところから撮っています。
ここ10年で世界に起きたこと、特にこの2年間は大きな変化が起きていますが、その変化のこの作品への影響は、特にありません。なぜなら、権力者が弱者を押さえつける構造は、昔から変わっていないからです。
この映画の後編、残りの2時間半で、本作のテーマはやっと理解できます。日本から国民党、共産党と政権が変わり、政治が変わり、主人公の人生は常に時代の変化に左右されます。正義とか人々の良心という思いから、多くの人が彼女に手を差し伸べますが、そのおかげではなく、彼女は単にラッキーだったから生き延びることができました。個人の希望というのは些細なものです。政治の変化の中で、いかに生き抜くのかが、我々の運命だと思っています。世界情勢が常に変わっている中で、人一人ひとりはとても小さいと感じた、それが、最終的にこの作品で見えてきたテーマでもあります。
私の他の作品は温かく、メロウで全体としてはポジティブな作品が多いのですが、比較すると本作は私の作品の中で最も悲観的です。これは核心にあるテーマのせいです。ビジュアルも同様に、この作品はダークでどんよりしている雰囲気になっています。
多くの観客はセンチメンタルを求めて私の映画をごらんになりますが、今回は雰囲気を変えています。自分は楽観的な悲観者だとよく言ってきましたが、この作品は悲観的な部分が大きくなっていると思います。

数多い香港映画の名監督の中でもかなり早い時期から中国での映画制作を始めた陳可辛監督。彼の処世観がこの作品には大きく反映されており、それはやはり彼の子供時代を含む経歴が深く関わっていると思います。そこで、今更ではありますが、陳監督の経歴を紹介しておきます。

陳可辛監督は、1962年、香港生まれ。12才まで香港で育ち、その後タイへ移住するのですが、父が脚本家・映画監督で、父の仕事のため幼少期の一時期は北京で暮らしたこともあったと言われています。18才でアメリカへ留学するも、20才で香港にもどり、1983年にタイ語の通訳兼アシスタントとしてジョン・ウー(呉宇森)監督の元から映画界へ入った。その後、ゴールデンハーベストで多くののジャッキー・チェン(成龍)主演作に携わったのち、1991年にアラン・タム(譚詠麟)とマギー・チャン(張曼玉)主演の「愛という名のもとに」(原題:双城故事)で監督デビュー。大評判となり、以来、「君さえいれば」(原題:金枝玉葉)や金馬奨・金像奨を総なめにした「ラブソング」(原題:甜蜜蜜)など、数々のヒット作を生んできた。2000年前後からアメリカで映画製作をはじめ、多国籍な映画を多く作る。2005年には中国スターのジョウ・シュン(周迅)と金城武、ジャッキー・チュン(張學友)出演の「ウィンター・ソング」(原題:如果・愛)を手始めに、中国での映画製作をはじめ、以来、中国映画界で監督・プロデューサーとして多くの作品に携わってきています。

そして、もうひとつのポイントだと思うのが、「酱园弄殺人事件」の詹周について。映画では描かれていない、実在の詹周の生い立ちを、最後にご紹介しましょう。
江蘇省丹陽の出身の孤児で、元々の姓は杜だったが、周という人の家で育てられたので周春蘭を名のる。9歳で養父に連れられ上海に来て、質屋を生業とする家に売られた。春蘭が21才になると、質屋の女主人が店員の詹雲影に嫁がせた。結婚した二人は、酱园弄85号の2階に住むが、詹雲影は賭博にはまり帰宅せず、結婚後2か月で愛人をつくる。春蘭は生活の為、タバコ工場で早朝から遅くまで働いていたが、非常に貧しく、多少なりとも質に入れられるものは入れ、売れるものは売り尽くしていた。そんな状況でも詹雲影は彼女に男がいると考え、彼女が外で働くことを許さず、家に戻れば、面白くないことがある度に妻に暴力を振るっていたという。
そして、あの日、事件が起きたとされている。

本作の後編の中国での公開は、2026年を予定しているが、まだ未定とのこと。
前後編一挙の日本公開を、一日も早くお願いしたい。

【ピーター・チャン マスタークラス】こちらはQ&Aの後に行われたトークイベント。映像が公開されているので、掲載しておきます。(追記11/15)
https://2025.tiff-jp.net/ja/lineup/film/38019LOU01